指輪

 心を閉ざし動かなくなった御堂がある日、俺の存在を確かめるような言葉を呟いた。それが正常な状態への覚醒の合図だと俺は思ったのだが……

 御堂の心は未だ夢の中だ。

 夕暮れの柔らかな日差しの中で御堂はリビングに横たわって、ふんわりとした眼差しをどこかに向けたまま、熱心にタオルケットを噛んでいた。俺は傍に座ってそんな御堂をぼんやりと見ながら今朝の出来事を考えていた。

 微動だにしなかった頃は世話が楽だったと眼が離せなくなった今、思う。今の御堂はまるで幼い子供のような行動を取った。言葉が全く通じず、危険な行為を止めようとすると号泣と叫び声が返ってくる。
 今朝、起きると寝室に御堂がいなかった。慌ててリビングに駈け込むと、ローテーブルに置きっぱなしにしていた煙草を口に入れている御堂がいた。
「何をしてるんだ!」
 叫びざま手から煙草をもぎ取って、指を御堂の口に入れ煙草を掻き出そうとしたら、手加減なしに指を噛まれた。
「……ッ」
 あまりの痛みに本能的な怒りが湧いて、殴りそうになるのを辛うじて止める。舌打ちをしながら顎を押さえて指を抜くと、叫び始めた御堂を引き摺ってバスルームに連れて行った。暴れる身体を押さえつけ、洗面器の前に座らせ、顎を固定し喉の奥を指で撫でて嘔吐を促す。
 呻き声、泣き声、叫び、吐瀉物の臭い、暴れる身体、痩せ衰えた、弱々しい抵抗、細い頸、正常ではない眼差し……。
 御堂を殺して俺も死んでこんな生活はもう終わらせよう。不意にそんな考えが頭に浮かんだ。だが、すぐにその考えの身勝手さに気づいて俺は自嘲した。死にたいなら、独りで死ねばいい。御堂を道連れにしていいわけがない。世話が辛いならここを出て行けばいいだけのことだ。御堂の両親にでも知らせれば、御堂は医療機関で治療を受けられるだろう。そうすればすぐに良くなるかも知れない。俺がやっているのは余計な事どころか御堂にとって害のあることだ。御堂の為を思うのなら俺はここにいてはいけない。だが……知らず声が漏れる。
「だが……愛してる……愛してる、御堂。……御堂……」
 俺は蹲って咽込んでいる御堂の頼りない背中に覆いかぶさった。わかっていてもどうにも出来ない。手放せない。独り善がりな一方的な好意を愛とは呼ばないと知っていても、これは愛なのだと思う。手放すくらいなら殺してしまいたい。御堂を殺して俺も死んでしまえば、もうずっと一緒だ。御堂は永遠に俺のものだ。
 今度は自嘲は浮かばなかった。御堂の身体を抱き起すと腕に抱え、涙と吐瀉物で汚れた顔を優しく拭いた。嗚咽の止まらない御堂の半開きの唇に口付けながら俺はゆっくりと御堂の頸を絞めた。
「ふ……ぅ……んぶ」
 苦しさに突き出され震える舌を捉えて貪る。愛しい、愛おしい、暖かい、柔らかい、大事な、大切な、俺の御堂……。

 結局、殺せなかった。すぐに後を追うつもりなのに御堂がいなくなることに耐えられない。殺せるくらいなら手放せると思う。
 夕暮れの日差しの中、御堂をぼんやりと見ながら考えていた俺は思考が堂々巡りをしていることに気づいて、疲労を自覚した。眉間を指で揉みほぐす。
「ゆびわ……きれい」
 小さな掠れ声に傍らの御堂を見ると、眩しそうに眼を細め微笑んでいた。
「指輪?」
 御堂の視線の先の自分の右手の甲に眼を落した。指の付け根の赤黒い噛み跡が、なるほど指輪に見えなくもない。
「どうせなら左手の薬指に欲しかったな」
 独り言ちると笑いが込み上げてきた。止められない。俺は血の様に朱く染まるリビングの中でいつまでも笑っていた。

『嗜虐の果て』には間違ってはいるけれど、偽りのない佐伯の愛を感じます。
実は一番好きなエンドでメガミドにハマったのは『嗜虐の果て』があったから……と言っても過言ではないほどだったりします。